2009年05月 アーカイブ
2009年05月31日
男と女のダバダバダ

泣きたくなるほどいい。
雨の日はこんな気分に浸りたい。
久しぶりにYouTubeでロマンチックを発見。
というのも、
club dictionary #04 [男と女のダバダバダ]
会場が青山から恵比寿に変わったからだ。
もっと、サロン、もっと、倶楽部、に変えたいから…おとなのね。
で、死ぬまで、男と女、もちろん、男と男、女と女、…恋生まれるなら
宇宙人でもいいかも。
TOOTH TOOTH ここはちょっと恥ずかしくなるほどスタイリッシュだ。
でも、そこがいい、非日常空間に忍び込まないと恋は出来ない。
まだ食事は食べてないが、休み明けには食べに行こうと思う。
その日の特別も考えてもらってもいい。
選んだ理由は、逃げ場があること。
これが大事。大人はいつだってワガママで、どんなときも自由で痛いのだ。
人の話より、自分の話をしたくなるだろう。
恋が芽生えるとね。明日、忘れていても恋は恋。
もっとコメディにも力を入れたいし、音楽や映像はもちろんだ。
笑える、ロマンチックがいいな。多くの望まれても困るのだが…
思ったことは何でもやってみる。
そう、話は男と女だ。映画の話ね。
tasika,16?もちろん、童貞。
東京の1966年って想像できる?
この映画には、そんな童貞君にも、男のロマンチックのすべてがあったのだ。
メロディーが泣けるほどロマンチック、
男が考える最高のものをすべて備えた映画だった。
このワクワクする 音楽=ボサノバ はなんだろう?超モダンじゃん。
ごめんあの頃超は言わなかった。
それにしても外人って、きれいで、かっこいいな。
フランス人もイギリス人もアメリカ人も全部外人だった。
素敵な洋服を着ている。あんな車に乗りたい。
あんなサングラスが欲しい。

全部まねがしたい。恋がしたい。セックスを知りたい。
いくらムスタングでぶっ飛ばしてもエコなんて誰も言わない男のエクゾースト!
あんな風に煙草の煙を吹かしたい。シガーって…赤いワインって…?
恋する人と荒野を馬で駆け抜ける。
あんなドレスを着た恋人に頭を洗ってもらえたら幸せだろうな…
レーサー、スタントマン、タキシード、背中の空いた黒いラメのドレス
死と背中合わせだから燃える大人の恋。
いくら想像しょうとしても、童貞には分からない。複雑な男と女。
映画の中で暮らしたい。童貞君はそう思っていた。
メロディーに、ダバダバダに、クロディーヌに、負けて
なんだかノスタルジックになってしまったが、私は過去には負けない。
よく見ると、さ、この男と女、自分勝手だよね。フランス人らしくね。
あんなに可愛い子供たち、預けてね、子供より、人生は、恋、女、男、
あの頃の日本人には、かなり、ない話ね。
だから、分かんない。っていいね。遠くの話ってね。
こうして今はYouTubeの恩恵を授かっているが、
インターネットの時代は、情報過多の時代は、
情報のパラドックスという現象を引き起こす。と言われている。
つまり、情報があればあるほど、我々の事実認識があいまいになり、
相対的な問題解決を喪失するということである。
この辺りはまた別の機会に考えてみようと思う。
ダバダバダ…
そうそう、このとろけそうな CLAUDINE LONGET だが、
自分のスキーのコーチを射殺したと報道されたことがあった。
確かその頃、あのアンディ・ウイリアムスと結婚していたはずだが…
Andy Williams
(それにしてもとんでもないものがこの国にはあるんだね。)
男と女 永遠はないのだろう。
恋はもって、三年とも。
だから、この映画が、堪らないのだ。
一時の幸福こそが、本物。
ぶっ飛ばそうぜ!
2009年05月28日
be full of life.
存在様態
よう‐たい【様態】
(1)物の存在や行動のさま。状態。様相。「生活の―」
(2)文法で、想像など不確定な言表のあり方。
(3)〔哲〕(modusラテン) デカルト・スピノザ以来、与えられた独特な意味では、実体の変化してゆくかりそめの形態、従って実体の非本質的な状態のこと。
偶有性。
我々の心と称される心についての自己知・(志向性の自己回帰成分)として、
アレ?なぜ、この「様態」を調べて日記に書こうとしたのか?
いまとなっては思い出せないが、
さっき、そば屋で座った魚種レットの便座がとても暖かく、
思わず眠くなって本来の目的を忘れて出来てしまった。
ので、忘れないうちに、宮沢章夫のことを書きます。

そうそう、デジタルカメラが撮影旅行中に壊れた。
こんな画像が出て来て終わり。ですがな〜
デジタルは壊れるのだ。
そんな壊れる乞われるデジタル、主にMac従にPC
が突然壊れる顛末記を書かせたら彼の右に出る者はいない。
なぜ左ではいけないの?
いけません。教えてgooより
日本の古来の伝統である縦書きを考えてください。
名簿などを書くとき、縦書きでは、右から書き始めて左へ並べていきますね。
つまり、右に書くということははじめに書くということです。
優先順位があるような場合、
はじめに書くべき人の名前が右に書かれることになります。
「右に同じ」は縦書きの場合、ごく当たり前です。
そんな日常をおもしろおかしく表現することの天才宮沢章夫、
いけません。教えてgooより 2回目の回答をさせていただきます。
先ほどは少し雑な回答をしてしまって申し訳ないです。
古事記に見る「左」の優位性についてですが、
伊邪那美命(イザナギノミコト)の三貴子誕生の場面で、
左目から天照太神(アマテラスオオカミ)が生まれ、
右の目から月読命(ツキヨミノミコト)、
鼻から須佐之男命(スサノオノミコト)が生まれたという場面があります。
これは、「左」の優位性を表れのひとつだと思われます。
な、なるほど、
で、宮沢章夫は子供の頃から欠かさず日記を書いていた
と伺ったこともあるからなるほど、
文章の達人が、今度は超話技を披露してくれた。
私の知る限り舞台を降りると舞台が刎ねると
いつも顔色が土色に優れない宮沢章夫、だから壮絶な感じが漂うとも。
たぶん全身の血液が舌と唇と脳に集中するためではないかと推測しているのだが…
そんな宮沢章夫がほんとうに忙しいそうにしている(富士日記2.1ブログ比)
にもかかわらず、
club dictionary #03で
絶品!「赤塚不二夫論」を披露してくれたのでありました。
これが実に見事で誠に還付金しました。
違う。感服しました。
私のような門外漢がそもそも落語の世界を引用して語ることは
まったくもって分福茶釜だが、
いけません。さらに詳しく 教えてgooより
宗教的な意味合いからも左(手)よりも右(手)に優位性を持たせるという見方もあります。南国等のヒンズー教・イスラム教・仏教を信仰する地域に多いのですが、
左手は用便(大便)をすませた後処理をする不浄な手という発想があります。
その意味からも、左よりも右が優位性を持つ訳です。
ひな人形の飾りかたについてですが、これは皇家をモデルに作ったものですから、皇室内での並び方に準じて配置されます。(以前は逆であったが)昭和天皇即位の時から向かって右(本人から見れば左)に上位の者が座るようになり、それをモデルにそのように配置されるようになりました。以前の日本の風習では、「天子南面」という言葉があるとおり、(本人から見て)左側が上位の者の位置するところだった訳です。(南に向いた時、左(方角的には東)が太陽のいずる方角であるために上座、逆に右(方角的には西)が日没の方角として下座とされてきました。皇太子を日継御子(ひつぎのみこ)と呼び、「春宮」や「東宮」と書くのはこの現れです。)
中世のヨーロッパでは家にはいる時には必ず右足から入らなければならず、左足からはいると悪魔が付いては行って来るという迷信もあったそうです。悪魔(サタン)の左足も山羊の足で、左足さえ見れば悪魔かどうか判断できるという迷信もあったそうです。
結婚指輪を左手の薬指につけるのにも意味があって、太古から女性の血は心臓から左手の薬指にかけて一本の導管が真っ直ぐにつながっているものだと信じられていたようで、女性の左手の薬指にリングをつけることが相手のハート(心臓)をつなぎ止めておく手段だと信じられていた頃の名残があるようです。
他にもいろいろと迷信とも言えるような“右”の優位性に関する話はありますが、多くは古き時代の女性差別を伴った思想に基づくものであるため、この辺りで終了といたします
たぶん、名人芸とは、アレのことではないか。
アレをみてないひとにはこうして話し手も、手は入らない。ても分からないから、
要するにアレで済ましてしまいますが、
名人と呼ばれる落語家の高座を堪能した時のような高揚感=アレ
それ、だったのです。
しかも、90分の講座を30分です小茄子。
小茄子はうまくても当て字が少し違う。
こな・す。
(3)身につけた技術・知識によって、困難で手間のかかる事柄をうまく処理する。
「どんな役でも器用に―・す」
「これだけの仕事はとても私一人では―・し切れない」
「このロボット一台で三〇人分の仕事を―・す」
「数を―・す(=多数ノモノヲ扱ウ)」
(6)(他の動詞の下に付いて)その動作を楽々としてしまう。巧みにする。
「難曲を弾き―・す」
「着―・す」
つまり、早稲田での90分の講義を
我々の為に三分の一に短縮したことで、(ちっょっと怒っている口調だったが…)
まず、普通に考えれば、当然三倍のスピードで話すことになる。
その息もつかせぬ語り口に私はすっかり舌を巻いたのですが。
技量とセンスと直感、その全部。
これって、ブリコラージュ?
例えば、バートバカラックが作曲した楽曲を
様々な音楽家の演奏で楽しんでいたのだが、
あるとき、その楽曲をバカラック自身が演奏したものを聞いた時の感動。
なんていうのはどう?
「そのとき現在に横溢するエネルギーはその多くが失われるとはいえ、
残余が抑圧され蓄積され、予定された終末で利用されて凄まじい
カタルシスを起こす。
おういつ 横溢
・ 生気が〜する be full of life.」
be full of life→@nifty翻訳 [人生でいっぱいにしてください。]
少し違うような気がするが、だいたい気分は伝わるよね。
be full of life いい感じだ。

時折一人飯する sasaya に写る風景に、なぜかしんみりする。
何かを書こうと思って写メールしたのだが、忘れた。
ま、 しんみり があってこその、be full of life.

東北一の神社にも裏はある。
2009年05月17日
考えることに慣らされた人たち

昨夜、小泉今日子さんの出演している舞台「楽屋」を鑑賞した。
結論を先に言う、完璧!だった。
で、その昔、私のつくるコメディにも参加して頂いたこともある、
声の響きがとても上品にもかかわらず、狂気の芝居もうまい。
類い稀なる才能の持ち主、村岡希美さんが出演していることも、
私がこのお芝居へ向かう強い動機でもあった。
動機が肝心、動悸息切れが心配、
そう、おとといも、同じく、キャロットタワー
(何とかならないかこのベジタブルな安い響きの公共施設名)の
三階にある、なんとアールデコ調の「パブリックシアター」にて開催中のイベントにご招待して頂きながら、私は途中で堪らず帰ってしまった。
そういえば、客席へのアナウンスが、キョンちゃん?だった。
あれ?同じく一階のシアタートラムでで小泉今日子の「楽屋」だし、
これはどういうこと…
はともかく、桜井圭介の紹介で知り合った
容姿端麗なダンス・パフォーマーの康本雅子が、
な、なんと、
小泉今日子さんの歌う「背中」に
合わせて踊るシーンはミュージカルのように、衣装が普段着だったことで
とてもセクシーだった。
そういえばあの時は着物姿が色っぽくみえた
デビューして間もない頃の康本雅子さんのパフォーマンスも新鮮だったのだ。
あの北の夏フェスの巨人RSRのブラックホールの舞台を
じっくり思い出させてくれて
〜流れれるものはやがてなつかしき〜
いつの間にかダンスは市民権を得たのだね。
もちろん、気になっていたスチャダラパーのaniも参加していた。
その抑えたパフォーマンスも?ダンスも、
とても、らしくて、好感がもてたから、
帰った理由はその夜の音楽そのもに波長が合わなかったんだろう。な。
どちらにしろ随分失礼な話だ。招待して頂いたにもかかわらずだ。
その分「楽屋」は当日券で入れたので、仮に途中で失礼しても…
そういう問題ではないだろう。私の品性とか人間性とかにどうも問題がある。
正直に生きることは容易くないな。
話は、「楽屋」
見るまでまったく予備知識ゼロという真っ白な状態で対面したから、
なんせ、私の常識知らずは計り知れない大バカなるカフェで、
なんと小泉今日子さんが男優の永瀬正敏さんと結婚していたことさえ知らず、
うる覚えだった、演出家を、生瀬を永瀬と見間違え、
へぇ〜、永瀬さんは演出もするのか〜
「楽屋」というお芝居が、
劇作家、清水邦夫さんの代表的な作品だということさえも知らず、
そもそも演劇の世界を知らない。
せいぜい、宮沢章夫さんやケラさんや、大堀こういちや小林顕作や池鉄や、阿佐ヶ谷スパイダーズや、その流れ?や派生的な分野しか見たことがないのだから語るに落ちるよまったくお恥ずかしい。
で、私の妄想は、永瀬さんなら、素晴らしい俳優さんだから、きっと数えきれないほどの楽屋話があるだろう。だから、それを今日という時代の比喩としての楽屋をスパット切ればこれは相当面白いお芝居になるのではないかと…
日本らしいブラック・コメディだ〜なんて勝手に想像してしまった。
しかも、よりによって、吉田レオ君にまで、
そのことを話し、怪訝な顔をされ、それはないでしょう。ときっぱり否定され、
こんなん、おつむ大丈夫?なことを書きながら、
そういえば、先日民芸館でのdic表紙撮影で、
永瀬さんと新しい映画の話で興味を持ちその人物の本も買って読んでいるが、
今はまだ非公開だから話せないからいづれ。
というのも、この芝居のことは、
ヤッコさんと小泉さんが対談した原宿でのイベントで、
キョンキョンの狂信的なファンである我スタッフから
この「楽屋」の件を聞いていたこともあり、
しかも今誰も彼も大好きなすこぶる話題の蒼井優さんも共演するんだから、
これはもう「芸能界は時代の旬を売る仕事」だよね…と
まったく頭の悪い想像を働かせてしまったのだ。
終わってる。もう地獄に堕ちろ!私。

だもんで、もちろんチェーホフを読んだこともない。
関連したお芝居なら付き合いで見たかもしれないが思い出せない
つまり記憶力の悪いのはいうまでもなく頭の悪い証拠だから
日本も私も世間は世界はそんな馬鹿は認めないのである。
日本は中国で朝鮮でひどいことをしたのである。私は「カモメ」を知らない。

毎日新聞の書評欄からの引用
「脇役スタンド・バイ・ミー」沢村凛著 渡辺保 評
チェーホフは
「私の戯曲には脇役というものはない。
どんな脇役でもその人の人生では主役だ」
その意味は、
ドラマは必ずしも波瀾万丈の中にあるのではなく、
平凡な日常にこそあるという逆転の思想である。

さて、そんな私でも、この「楽屋」は感動した。
最後のシーンに至っては、
小泉さん、渡辺さん、蒼井さん、が抱き合うシーンで
思わずこみ上げてくるものが私なんかでもしっかりありました。
その感動の筆頭が渡辺えりさん、
渡辺さんの芝居のうまさを私が語るのはそもそもおこがましいのだが、
これまでも渡辺えりさんの発言や行動力の素晴らしさは耳にしていたものの、
このお芝居の中心を支えるのはやはり渡辺さんであり、
演劇というもののスタンダードをきっちり押さえてみせてくれた。
つまり感服した。
次に、その才能にコメディの現場で直接触れさせて頂いたこともある
台詞に伸びやかさがある村岡希美は、
言うなれば、あのナイロン100%の流れを汲む役者さんだが、
村岡はこういう、
”私自身は、役者、役をやる者、女優は女として優れていると書く訳だし、”
なんとも意味深な自己分析と的確な表現だ。
暫く振りに遭遇した、村岡さんのジャンルや垣根を越えた見事な円熟ぶりに、
私は目を見張り堪能した。
あぁ、コメディ!いつかまた一緒に楽しいお仕事ができたらと…

それにしても、というか、
ここに集合した「女を超えた魅力」を兼ね備えた女性たちの中では
人気者の蒼井優さんの存在も一筋縄では行かぬ。ぞえ。
舞台に上がれば、けして可愛いというだけで得をするわけではないのだからね。
演劇は他のメディアとそこが違うんだなとまじ勉強になりました。
「女を超えた魅力をもつ女性」
例えば、男に媚びを売らない。
といえば、そもそもその言い方が…と女たちから怒られそうだが。
もちろん男に女が、私が女を、分かる訳がないのですが。
年を重ねるたびに心底そう思う。
女性を性の対象として捉えれば、
これがいつまでもつづく泥沼なんだが、
その女性の本質を見ることを拒否していることにもなりかねない…
分けてみるのも不自然だしね。
女を超えた魅力、
私の場合の最初の存在は、国際的にも明快に評価されている
女性デザイナーのKさんがそうであった。
年を重ねるごとに間を置いてお会いするたびに、
その存在の美しさに圧倒される。
自然の風景の中でそれに相当するものが見つからないかと思案してみるが…、
…世界遺産に認定されている建造物等が朽ちて逝く姿を追いかければ、
う〜ん、もしかしたら、
似たような感覚を覚えるかもしれない。
といって、蒼井優さん以外が、性的に魅力がないという話ではない。
おい!そこの、ちょっと、こっちこい!
やばい。女優、Bの威嚇する声が聞こえてくるようだ。
殴られたらそれもいい。
つまり、人間、女性、種として、生き物として、
すんげぇ〜荘厳な佇まいを醸し出しているとでもいいたい痛いのです。
そういえば、あのヤッコさんとの対談の折に、
小泉さんを、どう呼べば自然でしょう?の質問に答えて
じゃ、キョンちゃん、と呼ぶのはどう?
あぁ、なんて慈愛に満ちた言葉だ。
小泉さんは、そう私たちに優しくおっしゃってくださった。
が、
わたくしのように尻(けつ)の穴の小さい生き者には、
やはり小泉さんと呼ばせて頂くのが一番しっくりくるのです。
で、楽屋という芝居は、時代も場所も架空の話だが、
小泉さんの醸し出す雰囲気は強烈にズゴーンと、今、ここ、だった。
今日子 NOW ON HERE(少し違うかも)なのだ。
それにしてもだ。小泉さんには、強烈な華がある。
女優と呼ぶにふさわしい、まばゆいオーラのような華があるのだ。
小泉今日子は、まぎれもなく、女優であって、いい意味で、役者ではない。
「楽屋」は、素晴らしい四人の女優が主役するお芝居なんだと思うが、
私に、みえたのは、凛と華のある一人の女優と、
超絶した技法を備えた大変個性的な年代の違う二人の役者、
そして、今日、スターと呼ばれる、とびっきり可愛いくてとっても若い女性。
暗闇からボォ〜と浮かび上がる。出るぞ、出るぞ、と脅かされて、ビビっている
暗闇に、想像だけの幽霊が現れるようなと怖くて魅力的なオープニングから
最後のチェーホフの代表作「三人姉妹」の憧れの配役に、
それぞれが乗り移るシーンの見事さは、
ブリリアントでも、マーベラスでも、最高でもなく、
まさに、お上手〜、では、ますます歯がゆいのだ。
それにしても、小泉今日子がイブニングドレスに着替えた後の、
凛とした艶姿に、
ため息が出るような美しさに、
私は徹頭徹尾完膚無ききまで打ちのめされたのであります。
それはそれは、まれにみる、完璧なお芝居
「楽屋」だった。

現代人ほど、決まりきったことを考えることに慣らされた人たちは、
歴史上なかったんじゃないだろうか。
毎日新聞 書評欄 「見る」目の誕生はわたしたちをどう変えたか
サイモン・イングス (著), 吉田 利子 (翻訳)
養老孟司 評 一部引用
2009年05月14日
編集天国

「…結局、いい本作りとは、投じられたエネルギーの総量によってが決まるのだろう。」
118 シアタープロダクツ「シアタープロダクツのメソッド」より
「マスコミ人は、すべからく芸者です。身体を売って稼ごうという芸者もいれば、芸を究めようという芸者もいる。どちらでいくかはその人次第。芸者であることを覚悟して、芸を究めればいいのではないですか」と。
128 谷村志穂「結婚しないかもしれない症候群」&その他 より
「…世の中に出た時に旬でありながらも、時代を超えること。それが25年間編集という作業に関わる中で願い続けたひとつのこと。…」
前書きより
「…編集者は情報の料理人であるのと同時に、狂ったすごいものを商品にしてあげる仕事だと思いますね。」
坂本龍一との対談より
ふ〜ん、そうか、もしかしたら、
編集者になる醍醐味とは
何もないところに、
いかにしてバブルを生み出すか、
しかも、
その影の仕掛人にちゃんとなること、
だったのかもしれない。
と
この「編集天国」菅付雅信著 をじっくり
拝見してそう思った。
そういえば、今思えばだが、[ソトコト]なんかも
まさにそういうメディアだったのかもなぁ〜。とか。
つまり緻密に計算された情報操作情報操作情報操作
といってもいいのかもしれない。
もちろん、これまでも、
特にお金の集まる広告業界では顕著だったが、
コピーライター、クリエイティブ・ディレクター、
写真家、etc…たちが
時代のスターだ。と
もてはやされ、もてはやされ、もてはやされ、
大衆を巧みに煽動する役割を果たして来たのだったが…
その後というか、そのまま、というか、
「編集の時代」と広い意味で呼ばれて久しいはずだが…
特にこの日本では
その存在が見えにくいのも原因だったのか、
編集者とは?3Kみたくだったかも、が、
遂に、この日本でも、
スター編集者が登場したのだ。
その名は、菅付雅信。
やりました。やりました。遂にやりますた。
そういえば、彼の結婚式の時にも私はそう確信した。
のを今思い出した。
かれは、ここからが、すごくなるぞ!とね。
本をつくったから見てくれと彼からメイルをもらい、
首を長くして待っていたら、
月曜日に届いた。
うん?編集天国?
ずいぶん思い切ったタイトルだ。
しかし、でも、菅付くん、らしい。な。
分厚い。しかも大判だ。まったく、こんな時代に、
なんてバブルな奴なんだ…
まったく私の言い方はいつも偉そうな言い方で恐縮だが、菅付くんのいい意味での私の印象は、
いつも、いつも、バブルなエネルギーを
発散しながら早足に歩いて来るイメージなんだ。
例えていうなら、
80年代のイケイケどんどん風というか、
激しい。モーレツ、こってり、濃い、…ドッカーン!
そんな先入観がこれまではあった。
が、最近、ベジタリアン専門・飲食ガイド系ライター的な
こともやっていると知ってからは、
まったく、いつも旬な奴だなぁ〜。と感じていた。
でその夜、大して飲んだ訳でもないのに、
なんだかお腹がぐるぐるして、
明け方4時頃起き出してしまい、
そのまままっすぐトイレに座り、
そうだ、編集天国。
と思い出して、
送ってもらったその分厚い広い大型本
編集天国のページをめくった。
間
おぉ〜、なんともう六時じゃないか。
気がついたら、二時間もトイレにいてしまった。
〜にはボラギノ〜ル♫
もう夢中で読んでしまったのだ。
ふ〜ん、そうだったんだ。すげぇ〜!
そうなんだ。そうなんだ。ものすげぇ〜!
大変だったんだ。菅付やるじゃ〜ん!
もうこんな時代には…
まるで機関車のように突進する編集者は
菅付くん以外にいないだろうなぁ〜
そういえば、その昔、dictionaryで、こんなことをいっていた。
「もう”何処かの誰かさんの話。”はいいや、と思う。…」
トイレで私は感心の嵐だった。
お陰で、心もお腹もすっきりした。
が私の頭はぼんやりしたまま。
それにしても、私は編集者では、ないなぁ〜
全然違うなぁ〜、全くちがうなぁ〜、
菅付くんのような、明快なポリシーや大胆な野望!
例えば、篠山紀信と仕事した〜い。とか。
私はまったく、考えたことがない。
参った狸は目で分かる。とかいうもんなぁ〜
参った。参った。すごい。すごすぎる。
続けてるだけじゃ駄目だなぁ〜
どうしょうかなぁ〜
もう起きるしかないよなぁ〜
起きてるよなぁ〜
生きてるよなぁ〜
いきてるだけだよなぁ〜
それでもいいよなぁ〜
そうそう、川勝さんが、丘の上のパンクを出したから、
あれは歴史に残る作品だから、
そういえば、川勝さんもスター編集者だなぁ〜
で、菅付くんは、もう、川勝さんがやったから僕はピテカン物語をやる必要はないなぁ〜って、
そう言ってたなぁ〜
いづれにしても茂一さんは、
今も現場にいるから大丈夫ですよと
励ましてくれたよなぁ〜
現場も土壇場もいいよなぁ〜
次回のclub dictionary#03が心配だなぁ〜
それはいつものことだなぁ〜
天国よいとこ一度はおいで
酒はうまいしねえちゃんはきれいだ
ワー ワー ワッワー
2009年05月12日
邂逅するdic

次号128号のdictionaryの表紙撮影快調!
その昔、dictionary 75号で、一言頂いた、永瀬正敏さんとは、
テレビドラマ、『私立探偵 濱マイク』に
ほんの一瞬参加させて頂いた以来の邂逅。

次号の表紙写真をお願いした若木信吾くんとは
なんと彼記憶16年ぶりだった。
東京に上京して間もない頃、元寺山修司宅現在ckでお会いしていた。
その後の若木信吾の活躍はいわずもがなだが、
久々の邂逅で彼の次回ドキュメント作品(台湾が舞台)のテーマに見る前から
心を打たれた。で、
次回のclub dic#03で予告編を紹介することになった。
詳細は後日
ご活躍のお二人なら当然お互い面識もあり、
リスペクし合う柔らかいエネルギーがとても心地よかった。
撮影は憧れの民芸館、柳宗悦氏のご自宅だった西館の中庭で行った。

丁度その日は棟方志功氏の展覧会中で、
西館の和室の居間の床の間に飾られた掛け軸には
大変ダイナミックに「平常」と書かれていた。
その大上段にかまえた掛け軸の鎮座する和室で、
美しい女と男の、あまり平常ではない会話を映像化できたら…
を想像し頬を染め緩んだ。
それにしても書がこれほど自由なものだったとは…
もちろんその自由さを会得するには
相当の修練と鍛錬が必要であることは論をまたないが、
呼吸を操る技にどうもその秘訣があるのでは?
そんな直感を抱いたが…。
アクションスポーツにも通ずるというか、バカボンドもいい。
一見絵画のようにもみえる書だが、
高い絶壁から海へ飛び込むような
気合い一発、覚悟の寸止めを感じた。
書は途方もなく自由にみえるが、誠に怖い。

で、撮影はあっけなく終わり、
予約しておいた食事までの曖昧な時間を私は企画会議に充て仕事し、
再び三人は、ル・キャバレー (Le cabaret)で会食した。
酒は飲めなくてもどこまでつき合えるという永瀬さんの台詞に
九州男児は宮崎出身の男気を感じた。
で、まるで初夏のような空気の中での撮影だったが、
そのほてった身体の余韻が未だに残るぬるい夜に、
永瀬さんは黒いトレンチ姿で現れた。
しかも、飲めない男は、オレンジジュースでフレンチ、トレンチでフレンチ、
俳優という生き方がこれほどしっくりくる男優も少ないのではないか、
男は強くなければ優しくなれない。
どこかで聞いた台詞が思わず頭に浮かんだが、
その夜が二度目だったのその店で、
ショートのシルバーヘアーが似合う女主人のレコメンドする
切れのいいロゼ・ワインで払拭した。
所謂私はのんべいの部類ではないが、
食中に頂くオーガニックな白ワインには目がない。
それにしても、いつのまにか東京のビストロも豊かになった。
にもかかわらずそこで宴会してしまう鈍な感性のファッション?クリエーター?
さんたちには、そんなおしゃれなビストロで食べるフレンチもワインも結局魚民の煮込みと焼酎に化けてしまう。
狸と狐の化かし合いに囲まれるのは消化に悪いのだ。
間
それはそれ、
若木信吾の作品をリスペクトしている永瀬正敏の姿勢がとても清潔で
若木君は後のメイルで曰く、
永瀬さんの左目に狂気を見てうれしくなったと。
リスペクトする同士の会話を聞くのはとても清々しい。
これぞ理想のディナー・テーブルだと再び頬が緩んだ。
そうそう、あのeatripの監督、野村友里が友人の若木信吾に会いに
食後のコーヒータイムに現れた。するとトレンチの顔色に微笑みが現れた。
いい夜だった。

2009年05月10日
やさしおがま
大塩竈は小さな楽園になるかも。
みんなさんとてもやさしいのです。
私たちは、やさしおがま と呼ぶことにしました。
速報!
美しい神社からの全景

2009年05月07日
もう今夜は、

(架空の料理空想の食卓より/詳細は後日)
”またコンビで誘ってください。”
リリー・フランキーからうれしいメイルが届いた。
ふたりもあの夜が楽しかったらしく…、ほんと、よかった。
4.28 club dictionary # 02 に出演してくれた
リリー・フランキーとみうらじゅんのトークから閃いた、
人間,死ぬっつうじゃないですか。
これがテーマなら、何でも出来るじゃまいか。
ふたりのライブトークにピンと来て企画会議でパツンとハマった
これぞ、ブリっコラージュ?だが、
時代をこんなにうまくあらわしたフレーズもないだろう。
素ぽんぽんで捨て身でまる裸で生きてこそ生まれる言葉だ。
もういいだろう、三十歳以上の奴は、
十分ぬくぬく温々生きて来たのだ。
この先も甘いものだけ食べて生きていこうなんて
虫がよすぎるだろう。
いまさらどこにも逃げるとこなんかないのだから、
たとえテポドン飛んで来てもね。
さぁ、ここからは行動するしかないのだ。諸君!
徴兵も国から命令されれば反抗するが、
意気に感じて自ら進んで戦うのなら誰も異論はないはずだ。
もちろん、武器はペンだ。議論だ。行動だ。という意味ね。
国は私たちの為に在るのだろう。
で、黄金週間に年甲斐もなく三本立てで映画を見た。
これって、アメリカ?気触れの合理主義のつもりか
冴えないシネコンスタイルの
この安っぽさはいったい
ここはどこの地方都市だ。
しかもあんなに混んでたらいくら森林浴が売り物にしても
きれいな空気なんて、もうそのロビーにはないだろう、
しかも揚げ物ばかりが並んだHelthy & Beautyが
コンセプトだとか…
なんだか狐につままれたような気分になった。
それにしてもあんなに通路が狭くては、
火災でも起きたらどうするつもりだろう。
まぁ、私が心配することでないのかもしれないが、
事故が起きてからではね。
そんな一見新しい感じの新宿の映画館で感じたこの気持ち悪さは、
旧態依然とした儲けたい方法論の終末を
図らずも見ることになったのかもしれない。
肌で感じることでしか分からないリアリティーってあると思う。
だから、もう白人至上主義というか
白人が優越感をもって世界を支配する時代が
とっくに壊れているよ。
と、
この三本立てで見た映画たちから
それを教えられたような気がした。
もし人類の祖先が黒人という説があるなら、
白いというだけでもう異端ではなかったのか。
私のように子供時代から白人優越主義のプロパガンダを大量に浴びた地方都市住民にとっては、いまだに白に頭が上がらない感じが確かにある。もしここが敗戦国でなかったら、黒も白も黄色も赤も、
美しさの定義は、もっと自由であったはずではないか。
白いが美しい。
一度植え付けられた感性を剥ぎ取るのは用意でないのだ。
そういえば、本編前に、だから三度も見てしまった。
随分手の込んだシャンプーCFの女性タレントも
真っ白ではなかったから、
大衆を洗脳する広告屋はいつも先を読んでいるのだ。
夜道は黒いから気をつけよう。
で、白い、「ミルク」が一本目だ。

これもどうも偶然ではないような気がするが、
1972?年に初めて米国に渡航し迷子になり葉っぱに救われ、
1976?年には勤めていた雑誌社が倒産し
人生を見直す?為に友人を訪ね
二ヶ月ほど過ごしたあのとてもロマンチックな
花のサンフランシスコが舞台の映画だった。
当時も迫害されたゲイたちが集まって来ると聞いてはいたが…
友人がそのゲイコミュニティー発祥の地、
カストロでショップを開いていたこともあり、
右も左も前も後ろもすべてゲイたちという
ちょっとお尻がむずいカルチャーショック受けたことも
今では懐かしい。
それまでもファッション業界で働く友人が多かったこともあり、
昔から、私の周りにもゲイのクリエーターたちは多かったが、
カミングアウトできない日本の雰囲気を思えば、
あんなに開放的だった彼らにもこの映画のような激しい現実があったとは…
あの頃は今も音楽が好き以外に頭が空っぽの私には、
誰よりも人生をエンジョイしているひとたち
という以外にみじんもそれを実感できていなかった。
その後幸運にもラジオ番組を制作することになり、
ゲイであることをカミングアウトする番組を企画したり、
ゲイは特殊なことではなく、細胞の一つの種類であること等、
フリーペーパーdictionaryで繰り返し編集したことも
あの時代を目撃したことが多少影響しているのかもしれない。
もちろん、今日もゲイたちには
決して良好な環境ではないだろうが、
この映画示すように自分たちの力で
自由を手に入れる勇気に対して、
いつまでも甘いものだけ食べて生きていこうとする
あなたも私もみんな国家の奴隷ですよ。
であることにすら自覚のない我々に
この映画を語る言葉はあまりない。
おっと、…で、映画は、
この時間をちゃらっとやり過ごすだけの楽しみだけではない。
映画にはもっと深くて暗い闇の力がある。
人間なら誰しも潜在的にもっている素晴らしい力、
正義?の為に戦う勇気であったりとかね。
明日はもうすっかり忘れている映画ではなく、
生きている間、なんども繰り返し反芻し、
自分を映す鏡のような力が映画にはある。
と信じているひとたちが創る映画が私はめちゃ好きだ。
勉強一筋から優れた作品が生まれるのではなく、
そのひとにしか出来なかった
想像を絶するほどの経験の積み重ねからのみ、
ひとを感動させる映画が生まれる
のではないか?
完璧なシステムからでは
もうひとを揺り動かす感動は
生まれないのだ。
そのことを教えてくれた映画が、
インドとイギリス人の合作、
スラムドッグ$ミリオネアだ。

これもまた偶然なのだろうか、
映画の舞台となったボンベイ(ムンバイ)に、
確か1987~1989年にかけて、
クリスマスビデオ「ピースオンアース」の音楽制作で、
二度滞在したことがある。
しかも音楽収録時には、
無理を言って
あの細野晴臣さんにも同行して頂いた。
詳しい話は省くが、
まさにこの映画が暴いた驚くべき事実を
私も少しだけ覗き見した経験があった。
しかもインド商人に嵌められたことも含めてね…
ホテルから一歩踏み出せば、
右も左も前も後ろもすべて何らかの身体的不自由さを自慢する子供たち婦人たちに囲まれお金をせがまれるという
途方に暮れるあのカルチャーショックは今も忘れられない。
車が普通に走っている公道の道路脇に大量に人々が寝ているのだ。タクシーは真っ暗にも関わらず節約のつもりか壊れているのかどの車も前照灯を点けない。
かとおもえば、
おもむろに煙草に火を付け、一服し、
その決して飛ばない普通の煙草を吸えと渡される。
普段自分たち夫婦が寝ているベットを空けられ
そこに男同士スタッフと共に寝ろと気を使ってくれる。
当然一睡もすることなく外が明るくなって窓を開けると
そこは海岸通り、海に向かって男たちが並んで糞を足れている。
忘れようとしても思い出せない素敵な記憶をボンベイでは
沢山経験した。
が、
それを忘れてあまりある収穫が
ボンベイの音楽家たちとのセッションには
あった。
な、なんと階級で扱える楽器が違う
という激しい戒律の中で、
彼らの醸し出す音楽には
もうとっく私たちが失っている
神への祈りが在った。
もともとあったけ?
そう、この映画には、
これまで長く私たちが信じ込まされてきた
先進国と後進国
天国と地獄
という図式が、
人生を真っ当に生きる上では
まったく意味をもたない
かを諭してくれるのだ。
つまり
ないものが沢山あるからこそ
私たちが失ってしまった魂がある。
だから命を燃やすほどの恋や愛を
彼らは信じることができるのだ。
そこには一ミリほどの損得もないのだ。たぶん。
地獄のようなスラムで生きて来た青年が、
なに不自由なく育った高学歴者たちよりも、
実は真のお金持ちであるという
この壮絶なテーマを、
比喩として素直に受け取るには
壊れた資本主義に無自覚に住む私たちには相当の努力?
が必要かもしれない。
まるで悪代官に支配された江戸時代の貧困村?
希望ってなに?
「希望」
これがこの二作品に共通する思想の灯だと私は受け取った。
ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファックが洪水のように押し寄せてくる映画だ。もういい加減うんざりだ。

もう暫くこの言葉聞きたくない。
もうとっくにファックで笑える時代は終わってないか。
どうも先進国の中産階級で知識人を自認する方々の多くは、
人間を続けることに飽きてますね。
きっと。
ト・テ・モ・カ・ワ・イ・ソウデス
といって、もしかしたら後進国と呼ばれるひとたちなら、
少しは哀れんで笑ってくれるかもしれない。
Google Earthで世界を俯瞰から眺める時代の
チンポ失礼進歩を象徴する化のような
オープニングとエンディングのシャープな映像に、
コーエン兄弟の黒い皮肉が
一ミリほど込められているのかもしれない。が、
私にはこの世になくてもいい映画作品だ。
最新技術と超マーケティングで作る、
これぞ時代の最高峰的映画の存在理由が一ミリあるとすれば、
未だに自分たちは先進国だと信じている似非インテリジェンスたちや、ひとを不幸にする代わりに手に入れた裕福な方々の嗜好する、飲んでもすぐにピスになる、
よく冷えただけのまずいカクテル程度ということか。
大きなゴミをまたしてもつくる暇があるなら、
ゴミ溜の中で暮らす子供たちに手を差し出せよ。
って、いうか、
三本立てはいくらなんでも見過ぎでしょう。
そうか、私は疲れているのか、
コーエン兄弟は好きだったのに、(泣く)ま、ともかく、
時代が大きく変わろうとしている。
というよりもうすっかり変わってしまった。
それが分かった。(祝笑い)
映画はいつの時代もそのことをちゃんと教えてくれる?
そうか、映画が大衆文化と呼ばれる所以は、これか。
それにしても、もう、ファックはたくさんだ。
で、おもわずブリコラしたのだが、
三時間しか寝ないと定説のまるでモギケンみたいな、
あのナポレオンさんの有名な台詞に、
ジョゼフィーヌ、もう今夜は、チーズはたくさんだ。
という小咄、そんなん、なかったっけ。
ブルーチーズならまだしも、
さすがにウオッシュ・チーズは堪らない。
なっが。
2009年05月05日
幸せハッピー

あの場に居合わせたことがなによりも幸せハッピーだった。
細野晴臣さんの存在に感謝!感激!最大のリスペクトを込めて!
ほんとうのロックスピリッツをもった日本のロッカー忌野清志郎さんの存在を
私は時間と共にYouTubeで再認識しています。
YouTubeの存在がこれほど心強く感じたこともなかった。
大切なひとだった。
人間、死ぬ、つうじゃないですか。

みうらじゅんのこの言葉に反応した。
リリー・フランキーとみうらじゅんの
Club dictionary #02 でのトークショーのことだ。
ふたりの息の在ったチンポ話の笑いの連打に、
ランニング・ハイは、まだバージンだが、
手当り次第にレイプする笑いでLaughing ハイ!になった私は
図らずもその夜再び童貞を失った。そう、私も観客もふたりの笑いに完全にイカレていたのだ。
仏教系高校出身者と聞けばなるほどだが、
仏を肴にロックする笑いをぶちかますみうらじゅんから
思わずこぼれたこのフレーズに、
その昔、ロンドンの外れで体験しカルチャー・ショックを受けた、
あのL.K.J.を思わずフラッシュ.バックしてしまったのだ。
LKJことリントン・クウェシ・ジョンソンはダブ・ポエットの第一人者にして英国の黒人解放運動家のマルキスト。大学在学中にブラック・パンサーに加わり、政治意識を高める一方で、詩作をはじめる。74年に自ら編集にも加わっていた反人種差別雑誌『Race Today』誌に詩を発表し、さらに同誌からジャマイカン・クレオールで書かれた第一詩集『死者と生者の声(Voices of the Living and the Dead)』を出版。LKJは、ミュージシャン以前に活動家であり出版人であり詩人である。
レゲエ/ダブでは一般的なラスタ思想や恋愛を歌うのではなく、一貫して社会的主張をポエットしてきたLKJ。音楽的には、UKダブ特有のクールでダークなベースラインにホーンセクションが絡み、LKJの頑固一徹アジテージョンがダブワイズ!身震いする格好良さに一瞬、「世界を変えるのは詩人である」なんて、ちょっと恥ずかしいことも言ってみたくなる。
以上インターネットより。
http://www.rll.jp/hood/tee/rll13_lkj.php
http://www.lkjrecords.com/lkjblog.html
で、まわりくどい言い方は止めて、
今年からYMO名義で継続することになった、
東京の夏フェス?「ワールド.ハピネス」
第二回のプレイベントのプロデュースを仰せつかっていた。
こともあり、「人間、死ぬ、つうじゃないですか。」
のフレーズで閃いた私の思いつきをこのプレ・イベントに据え、
今まさに企画は進行中でなのである。
といって、その閃きを具現化するのはすべてひとの力だ。から、
要はスタッフが肝心だ。その昔、シンガーソングライターとしてデビューしたこともあった島根の出身の個性あるスタッフMが、
ワールド.ハピネスを主催する事務所の元所属アーティストだったこともあり、
っていうか自分の興味あることを中心に動く、
“僕は鈴木慶一さんとも一緒に仕事したんですよ“という性格を尊重しつつ、”ビートニクスは絶対ですよ!”などと進むこの企画の危うさを伝える言葉を私は知らないが、蛇の道は蛇ということで納得前進している。
つまり楽しいという意味ですな。
楽な人生を生きていては人間は腐るのだ。
しかも昨夜は新作映画三本立てを新宿の丸井で敢行観光したしね。これは後日。
よし、企画趣旨だ。
楽しむ音楽から 閃き行動する音楽へ
振り返れば私のロックは反抗だった。
しかしそれは恥ずかしいほど未熟で自己中心的で無生産で無意味な反抗でしかなかった。
楽しむだけの音楽となんら変わることはない。が、
あの時の衝動や閃きなければ、今日の私はいない…
「人間、死ぬ、つうじゃないですか。」
で、今日の私が閃いたのは、
「音楽が生まれる現場」にいたいということ。
閃きが生まれる音楽とは?
音楽が生まれる現場とは?
出演予定あくまでも予定。
高橋幸宏&鈴木慶一/ビートニクス
リリー・フランキー&みうらじゅん
+川辺ヒロシ(Tokyo No.1 SoulSet)
いとうせいこう+ダブマスターX
+三浦康嗣(口口口)
青柳拓次、小泉今日子、阿部海太郎、大貫妙子、
内田ヤヤコ、渡辺琢磨…
こうして思いは膨らむばかりだ。
それぞれの、人間、死ぬ、つうじゃないですか。
音楽の生まれる現場に立ち会いたい。のです。
いくつになっても膨らむのはいい。
