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2009年04月25日

Argue

Argue 3.jpg


偶有性が剥き出しのまんま現れる現場だったからこそ…

茂木健一郎さんの言葉だ。

男たちがその存在のすべてをかけて議論する場であり、

命のやりとりを議論する場でもあった茶室。

茶室には厳しい茶道の作法があるということは、

即ち、命のやり取りにも厳格な作法があった

ということではないか。

沈黙する作法、言葉を吟味する作法、

それら意識の宇宙が「美意識」として存在していた。

のではないか。


dictionary  新企画

HOW TO Argue 議論(作法)

茂木健一郎が語る、良く生きるための議論。

議論の仕方を学ぶ。

私は幸せになる為に生まれて来た。と思っていた。

となれば、今一度、私は生きる為の作法を学びたい。

人生をもう一度生き直すという決意でもある。

あっという間の半生であった。が、

…権威を嫌い自由を求めた男たちが、

いつしか権威そのもになっていく姿を知っている。

刀狩りするように、と茂木は言う。

議論を、論争する武器を、

あらゆる意味での支配階級者たちは、

言葉を、刀狩りしてきたのだろうか?

国家であれ、己の権力であれ、

力を継続させる為だけの言葉狩りなら

それはまさしく、

武装国家であった徳川幕府の支配体制を、

あれからず〜〜〜〜〜と、

明治維新後も第二次世界大戦後も、…絶えること無く継承し、

今日の今日まで、それをしっかり守り抜いて来たことになる。

そこに真の民主主義は無かった。ということなる。


限りない 間 


話は飛ぶが、昨夜の本多劇場はなかなか楽しめた。

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出演者の長田さんから誘って頂き、普段なら途中で帰る男は、

予想を裏切って最後まで楽しんだ。

なにしろ、続けることのすごさは、

円熟してしまうことのすごさだ。

発酵するということです。

腐る寸前の臭くてうまいガスをしっかり嗅いで来た。のだ。

山崎が、峯村が、長田が、

これまで何度か、私のコメディに参加して頂いた

俳優さんたちが、見事だった。

円熟の粋、域、意気、

ひとりひとりがとても気持ち良さそうだった。

初めてかも、この感じ、。

ナイロン100℃公演

いつも、息苦しくなって、帰ってしまう。

あっちと、こっち、

いつもなら、壁を感じてしまうのだ。

私の認識のせいかもしれないで失礼な話だが…


で、昨夜は、誠に感じ入った舞台であった。

NYLON100℃ 33rd SESSION「神様とその他の変種」

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:犬山イヌコ、みのすけ、峯村リエ、大倉孝二、廣川三憲、長田奈麻、藤田秀世、植木夏十
/ 水野美紀、山内圭哉、山崎一
日程:2009年4月17日~5月17日
劇場:下北沢 本多劇場


話を戻そう。


HOW TO Argue 議論 には、ある種の官能性があると

茂木健一郎は語る。

また、

以下、茂木健一郎 クオリア日記より引用


coupleとdecoupleということを
思う。

何に自身をcoupleさせるかで、
自分は変わっていく。

感覚や運動の連関を通して、
次第に学習が進み、自己を構成
するdefault networkの成り立ちが
変化する。

何かから、あえてdecoupleするというのは
不自然だし、私の哲学からしても
潔しとしない。

だから、こういうものとcoupleして行きたい、
というものを列挙することにしよう。

まずは、自分が発することが、
できるだけ広い文脈における
message in a bottleとなること。
あらかじめこのような文脈だけで流通する、
と決まっているのではなく、また、
その文脈の中で評価されるために
作られる、と定まっているのでもなく、
思いもかけぬやり方で、未知の場所、
時間、人に届く。

そのようなものと、自身をcoupleさせたい。

次には、自分を高め、深めてくれること。

この世界のどこにいようと、イデアの
世界において自分を高めていくことは
可能である。

文明の中心にいる必要はない。学術の府に
ある必要もない。ひとりの創意工夫で、
ただ、キラキラと目の前にある
虹のハードルを越え続けること。

そのようなものとcoupleし続けていれば、
decoupleはその反作用として起こって
いくことだろう。

桜の花たちがいよいよ、大きくおおきく
開き始めた。

引用終わり


多くの人が、
自由というのはどうにでなることだと錯覚しています。
例えば、フリーター。

あれはフリーでも何でもない。

「ドリフター(漂流者)」ですよ。

私は自由というのは「航海する人」だと思う。

「航海する人」は目的地を自分で決め、

そこから逆算して航路が生じる。

そして自分が今どこにいるか、現在地を知っている。

「目的地・航路・現在地」

この三つのどれかがを欠くと漂流してしまう。

目的地がわからない。航路を知らない。

現在地がわからないという状態。

この人は自由でも何でもない。

何も出来ないし、どこへも行けない。

それを避けるには、目的地を決めて航路を選択せざるを得ない。

つまり自己のあり方を決めなければいけない。

けれど、これは苦しい。

南 直哉 

「人は死ぬから生きられる」

茂木健一郎 南 直哉 

新潮社のKさんに送って頂いたこの作品に沈黙した。

まるで、魚があっぷあっぷしているような気になった。

すごい話を読んだはずなのに…

私の頭はまったく白紙だ。

茂木

…よく文脈主義者という言い方をするんですが…ある固定化された文脈の中でぬくぬくと生きている人。

大学の先生とかに多い、自覚的にそのような自己を選択しているということを忘れてしまって、いつの間にか、もう魂の表面が厚い膜に覆われて鈍感になっている人。

先ほど「漂流者」の例を挙げましたが、それは、

「丘で干上がっている人」ですな。

茂木

仏教界にもいるでしょう、干上がった人が。


”う〜ん、丘の上のパンクは知っていたが、

丘で干上がっている人…、恐るべし、魂。”


茂木

人間が生まれてくること自体、自分で選んだことではないし、基本的には不条理なものですよね。

…人間の存在の根本に、欠落がある。…喪失が原初にあるんだと思う。

茂木

その欠落したものは、自分で絶対埋められないものですよね。

原理的に。

…それを埋めるたものものが、あたかも進化や進歩のごとく見えるんじゃないんでしょうか。

ところが、それは埋め合わせにすぎない。

茂木

南さんもおそらくそうだと思うんだけど、欠落について考えるのは、最大の快楽なんです。それ以外の快楽はない。

それが痛いところでございまして。


う〜ん、こここれは面白すぎる。

「人は死ぬから生きられる」

茂木健一郎 南 直哉 

もう、赤線引きっぱなし、ぜひ、お読みくだされ。

Argue 4.jpg

つづく。

かも。

投稿者 moichi : 2009年04月25日 15:00

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