2008年06月22日
again and again

自分の生存に他者を切実に必要としない生物だったら、
他人が拍手しょうが拒絶しようが、
きょとんとしているだけだろう。
人から褒められたい、喝采されたい、
という承認欲求が強すぎて、
むき出しになっている人はつらいものであるが、
それもミルクをくれと泣く新生児と同じことかと思うと、
なんだか切なくなってくる。
社会的哺乳類であること/茂木健一郎著
(やわらか脳より抜粋)
つい勢いで書いてしまうこのブログだが、
今回も、
図らずも誹謗中傷の範疇に侵入していることがあるようだ。
最近も、そんな指摘を頂いて、
反省猿 again and again のごとしである。
(あれしごとに似てる)
で、図らずとはいえ、そんな中傷を予期せず書いてしまう
裏には、
どこか、その相手のことを(知っていてもあまり知らなくても)
自分のことをよく思っていないのではないか?という
被害者意識がどこかに潜んでいるのかもしれない。
一目会った瞬間に、好き、嫌い、のバイブレーションを
発信したり感じてしまうのは生命力の低下なのか
はたまた生命保存の本能なのか…
言語の違う大人に、または子供であっても、
本能的に子供は不安や恐れを感じると
どこかで読んだ記憶がある。
とにもかくにも、
面と向かって話すことの勇気を衰えさせてはいけない。
こうして自分を励まさなければならない自分とは
なんととほほ恥ずかしい生き物だろうか…
とはいえ、これを書き出した理由は、
仕事仲間?の忠告であった、”ありがたい。”
つまり、
”あんなこと書いちゃ駄目だよ!
相手はあなたをリスペクトしているんだから”
なんてことを伝えられた瞬間
天にも昇る心地になってそのまま自虐したのであるから
どうしても自分らしく生きることの出来ない
この情けなさを
こうしてなんどもなんども懺悔するのである。
「しかし開き直ったら人生は生きる価値なし」
桑原家の教えより(嘘)
さて、APMLの前向き情報で知ったのだが、
そのやられた作品から繋がっていった先に
こんなメジャーな?作品があった。
弱さを売り物にする儚さやロマンチック・フィーリングと
同時に、
そこにはゲロを吐きたくなるような醜さが同居しているから
一見美しい哀愁の表現に飲み込まれてしまうのではなく
せめて爪楊枝ででも負けたらあかんと抵抗を試み挑みたいものだと…
切に反抗抵抗自虐した。
それにしても、映像表現?
がここまで吐き出されてくるとは思ってもみなかったが、
混沌だが無限の選択肢が次への可能性を秘めている事実に
かすかな希望を感じた。
冒頭で紹介した、茂木健一郎さん著の「やわらか脳」
の後半で、おや?とアハしたのが、
「奇妙であることの自由」という定義だった。
イギリスは近代科学の発祥の地である。奇妙な人が、その奇妙さを集団の中で萎縮させることなく、ますますそれぞれの奇妙さの世界の中に傾斜していける、というのが科学的創造性を育んだ一つの条件だったのではないか。(やわらか脳より)
コメディを愛する茂木さんならではのやったぜ指摘に
今私は幸福に満たされている。
「自由」の美旗を失って久しい昨今、私的にだが、
「奇妙であることの自由」
ここに私の「自由」の向かう先が見えたのだ。
「○○○○○〜」
それにしても「やわらか脳」とは見事なタイトルだと思う。
ほんの少し前なら、”年寄りは頭が固い。”
が社会通念だったが、
若くて頭の固いひとがこんなに溢れてしまった時代に
一番必要とされている才能こそ、
この「やわらか脳」だす。
茂木さんの沸騰する言葉にしばらく冷凍された精神が
再び立ち上がってくるくるくる?パー!again and again

投稿者 moichi : 2008年06月22日 13:33
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