2007年12月09日
HEREAFTER

一日風邪で寝ている。
しかも、今日は誕生日だから、
特別な気分の時に見ようと思って仕舞っておいた
Glenn GouldのHEREAFTERを見ることにした。
私の英語読解力ではちょっと理解に乏しいドキュメンタリー映画だった。
もっとはっきりいえば、彼の演奏シーンだけで充分だ。
俺の勝手に理解させろ!よけいな演出はいらない。
うざい駒を早送りしながらいらつく私。また熱が出るじゃないか…
うん?エネルギーが湧いて来た証拠だ。前向き。
トニモカクニモ最近ますます好きなったGlenn Gouldだったが、
こうして彼の演奏する姿の変遷をリアルに映像でみることで
わかってしまったことがある。

天才と呼ばれるからではなく、
すべての芸術家は、
己自身の為にのみ芸術を存在させるのであって
観客を欲するのは真の芸術でも真の芸術家でもない。
芸術家は命の続く限り、自らの望むところにひたすら突き進むのである。
自分以外の周りはまったくどうでもいいのである。
だから、真の芸術家は、天才!と呼ばれ、奇人と呼ばれ、
あいつは気が狂っている!と社会から隔離され、
その認識の上で、ようやく賞賛されるのだ。
普通の人間は周りを無視して生きていくことなど出来ない。
社会性がないということは、どこにも存在しないということだ。
芸術家はあらかじめ彼方に置かれているから、
日常に埋没する人々の刺激物として重宝がられるのだ。
芸術家とは、芸術を生み出すということは、それほど厳しい生き方を選ぶことで
死への絶壁を這う日々を望んで生きていくということである。
さて、ここまでは、凡人から見ればということにして置く他はないが…
例えば、大変不謹慎で申し訳ないが、アルツハイマーを病としてみれば、
介護する立場に立てば誠に厄介なことだが、
迷惑の自覚の消えた本人は、そう生きるしかないのだから、
いたって呑気ではないだろうか…
この前提で無理を承知でつづけるが、
いろいろな病名をつけることで誤摩化しているが…
それしか選べない生き方をする人々を
社会から隔離する方便を取り除いて再認識してみると、
もし私が芸術家の奏でるピアノの音に心を洗われるのなら、
別名がついて隔離されている人々からも
私の心は喜びを感じることができるのではないだろうか。
千手観音を観劇した時に受けた難問が
ようやくこうして溶解(成仏)していくような気がする。
昨日の茂木さんの講義からも大変救われたのでかなり調子に乗っているが…
天才も凡人もゲイも障害者と呼ばれる人も、
ひとには変わりなく、ひとの顔がひとりひとり違うように
ただ、ひととして存在するのだから、もっと交ぜろ交ぜろの植林のように、
融合の時代に生きている私たちは変わらなければならないのだ。
それが種の進化の過程に遭遇している私たちの努めでもある…

リリカルなピアノ演奏という概念は一瞬に飛んだ。
今までも不思議に思ってはいたが、微かにというか、
かなり激しい息づかいが聞こえるものの、
それまでCDで聞いていた時には、
その繊細なピアノのタッチになんども涙腺が決壊しそうになった…
しかし、こうして実際のドキュメンタリー映像を見ると、
それはもっと荒々しいものだった。
ピアノに忍び寄り、食らいつき、喉を鳴らして唸るかと思えば、
ヨッパライが風呂場で気持ちよさそうに鼻歌を歌う。
ほっと安心していると今度は獲物を仕留めた猛獣が
あらん限りの声を振り絞って雄叫びを上げるように
叫びながらピアノをかき鳴らす。
それはまるで、アグレッシブなコンテンポラリーダンスのパフォーマンスを
みているようで、想像を絶するその野性的なピアノ演奏に私は度肝を抜かれた。
あんなに可愛かった少年が、眩しいほど美しかった青年が、
いつしか、薄くなってしまった髪の毛を気遣い、
牛乳瓶の底のように厚い眼鏡を必要とし、
まるでせむし男のような姿でピアノを弾く。
私はひとりの天才ピアニストの変遷を目の当たりにし、芸術の真の姿を発見した。
子どもの頃から、そう生きるしか他になかった
真の芸術家 Glenn Gould
私は彼の人生に接し、例えようのない感動と
ここからまだ生きていく上での力と大きな答えをもらったような気がする。
人生の中盤を大きく超えたことを自覚したさせられた。
誕生日の今日。
風邪も熱も、私自身を知る為に有効な薬になった。
投稿者 moichi : 2007年12月09日 23:10
